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special thanks_ありがとうございました

 つい最近、お引越しをしました。
 その話は次回に譲ることとしますが、今回は1時間半電車通勤卒業記念「電車のなかで見たこと、考えたこと」をお話したいです。もう一生乗ることはないのでお話すると、私は神奈川県の藤沢駅代々木上原駅間の片道1時間を丸々電車に乗って過ごしていました。行きは始発なので1時間爆睡ですが、帰りはだいたい19:12の快速急行だとか、その後30分おきにやってくる急行藤沢行きなんかを利用していました。

 電車のなかでは、基本的に本を読みます。基本的にというか、絶対的に本を読んでいます。ですので、会社に今読んでいる本を忘れてきてしまった時なんかは大変で、青空文庫を急いでダウンロードして太宰治の『女生徒』を読んだり、電子書籍で『壇蜜日記』や『将棋の渡辺くん』なんかを買って読んだりしたこともあります。

 電車の中には、いろいろな人がいていろいろなことをして時間を過ごしています。ちらっと人間観察をしたりもしますが、電車内で人が何をしているかって大体次のうちのどれかに大別できますね。スマホタブレットを使っている人、寝ている人、同乗者とお話をしている人、本や雑誌を読んでいる人、そして何もしないでただ乗っている人です。新聞を広げる人や週刊誌を読む人は、今では本当に見なくなりました。私が高校生だった10年ほど前はまだそれなりの数の人がホームに列を作りながらこれらを読んでいたのに。

 その中でも、自分の職業柄(+嗜好上)どうしても本を読んでいる人は何の本を読んでいるのか見てしまいます。去年の秋頃、『銀河考古学』というむずかしい本を読んでいるお兄さん(年下なんだろうなぁ)がいて、こんなにも時めく学問があるのかと驚いてみたり。今日だって、ニュースの正しい受け取り方についての本を読まれている方がいました。

 でも、近ごろの電車内でいちばんよく見かけるのは、どうしたって「スマホを使っている人」です。わたしは、この人たちが何をしているのかも、ついつい見てしまいます。そうすると、大抵こんなことをしているわけです。

LINE
SNS(facebooktwitterInstagramなど)
ゲーム(特にぷよぷよみたいな丸を爆発させるやつ)
動画or音楽

 たぶん、スマホをしている人ってほとんどがこの中に入るのではないかなと思うんです。私は、この景色の異様さに恐ろしくなることがたまにあります。

みんなが、同じことをやっている。

なぜ、みな同じことをしているのか。なぜ、同じことをすることに無自覚なのか。

これは、私にとって、幼いころからの確実な違和感でした。人の真似は絶対にしたくないし、誰かに私の真似を絶対にしてほしくないと、小学校の低学年くらいから、すでに思っていた記憶があります。その原因とか、きっかけというのは覚えていないのだけれど、私はずっと「人と違う自分でいたい」という願望を抱き続けてきた気がします。これには、随分と苦しめられたし、今も苦しめられています。自尊心が膨れ上がって自分でもコントロールできなくなり、終いには自分を大切にできなくなり、知らないうちに自分自身を傷つけたりもたくさんしました(あっ、痛いことはきらいだから、比喩です。心を、ということ)

「人と違う自分でいたい」それは端的にいえば「自分を特別視していることになる」のではないかと、うんざりすることもありました。自分で自分を棚に上げて、斜め上から人々を見下す自分を想像して嫌になったり。さらにいえば、「人と違う自分でいたい」と思うのと同時に「どうして普通の人が普通にやっていることを私はできないんだろう」と思い悩むこともしばしばありました。今もあります。「何者でもない自分」を受け入れるとか「自分らしさ」なんて邪魔なばっかりだ、ということを最近よく考えます。

あらゆる方向から心ががんじがらめにされて、身動きのとれなくなってしまった私のような人間に有効なのが文学だったのだと思います。

 「考える」というのは、言葉を使って考えますね。だから、ずーーーっと悩み考え続けていると「自分の痛み」みたいなものが言語化できるようになっていきます。そして、その痛みのルーツや痛みをどう解釈をすれば楽になれるのか、ということが少しずつ言葉でもってわかってきます。

 そのあたりまで来たとき、文学は人に寄り添ってくれる。

 そして、言葉は武器になり、盾になって私を守ってくれる。

 太宰治が引用した『選ばれてあることの恍惚と不安とふたつ我にあり』とか、中島敦山月記に出てくる『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』とか、夏目漱石の『こころ』は、本当にしんどかった。苦しいぐらいに、知っている感情だったからです。

 でもね、それだけではないんですよ。

 人と出会うこと。どうしようもない自分だったときに出会ってくれた人たち。特に、わたしの場合は「なんとかしなくちゃ」という思いの中で絵を描き始めたり、シェアハウスに住み始めたので、そのときに出会った1人1人の存在は、本当に、とてもとてもありがたかった。「そのままのわたし」みたいなものを肯定してくれる人が、たくさんいたのです。このありがたさは、いくら「ありがとう」と言葉にしてみても足りないたぐいのやつです。しつこいくらいに、ありがとうって思う。ほんとうに、ほんとうに。

 本当はね、「ほとんどの人が同じことをしている時間に、自分にはどんな違うことができるか」というようなことを書きたかったのだけれど、そういう感じではなくなってしまいました。足りないものを求めることはかんたんにできるのだけれど、今あるものに「ありがとう」と思うことって本当になかなかむずかしいんです。
 だから新生活が始まった今、改めて言いたい。この数年間、やっと自立歩行ができるぐらいになったこの数年のあいだに、このどうしようもない私にたずさわってくれた皆さん、本当にありがとうって言いたい。本当に、本当にありがとう。

 私は、これからも本を読んだり、絵を描いたり、文章を書いたりして、人の役に立つものを生産し続けたい。そのために、まだまだがんばりたい。この数年、いつまでも「恩返しができない!」って、ずっと言っているけれど、どうか待っていてほしいです。
 幸せになります(笑)そして皆さんのこともできるだけ、ちょっとずつ幸せにしていきますので。私の力で。待ってて!