leading a book_007 他人の「まとわりつく思い出」を踏みにじらない

 明けまして、最初の手紙です。
 「更新頻度ではなくて、自分の言葉と表現を時間をかけて模索していく」がこのブログの目標です。

 次にブログに書きたい内容はもう考えていたのだけれど、せっかくだからそれに結びつく本を見つけたいと考えていたら、電車のなかで日能研の広告を見つけました。国語や算数、理科、社会などの難関中学入試問題が掲載されていて、見つけると思わず解かずにはいられなくなってしまいます(そして、たいてい解けません…)。今月は国語の問題でした。読みながら「既読感」を覚えたので「はてこれは」と思い、出典を見ると辻信一さんの『「ゆっくり」でいいんだよ』でありました。

 文化人類学者であり、環境運動家でもある辻さんは、環境NPOナマケモノ倶楽部」を設立したり、「キャンドルナイト」や「スローライフ」をキーワードに活動をしている人。悩み多きヤングアダルトを読者層に据えた「ちくまプリマー新書」から10年前に出版された本書を、就職活動中に私も読んでいました。世の中すべてに対して斜に構えた姿勢を貫きながら、ことごとくエントリーしていた会社に落ちてゆく当時の私の読書記録はとても辛辣で、

 「今、与えられているものをすべて否定して、明日からスローライフを実践します、というのは到底無理。実際、どうすればいいのかも書かれていないし。ただ、まだお受験や習い事に忙殺されている子どもたちには、新しい価値観を植え付けてくれるだろう。参考のひとつにすべき一冊。」

 と(笑)なんともえらそうな。私は、昔の私自身をアイロニーをたっぷり込めて「クズ」と表現することがままありますが(そうすると当時の仲のいい友人はケタケタ笑います、本当にだめな人間だったのです)、読書の醍醐味は、こういうところにありますね。つまり、同じ本を違う時代の自分が読むことによって、新しい感想が持てるということです。

 今回、この本のどこが入試問題に使われたのか。宣伝をするつもりではないけれど、実際の問題を読んでいただくのが一番早いのかもしれませんので、ぜひ、ご覧ください。http://www.nichinoken.co.jp/shikakumaru/201701_ko/

自分にとっての宝ものとは何か。

 正直な話、このお話を小学6年生の子どもたちが読んでも、どんなに頭のいいお子さまでも、あんまりピンと来ないのではないかと思うのです。「お金」というモノサシは、ものごとの価値を図るためには便利すぎる道具のひとつではあるけれども、決してそれは「絶対」ではない。ものごとの価値は、「そこにまとわりついている思い出や、そのモノの中に何かのついでにそこからにじみでるすてきな時間」こそがその理由なのではないか、ということを文章を読んで理解するのではなく「実感」できる小学生って、相当に大人びているなと思います。私は、子どもの頃にじゃじゃまる・ピッコロ・ポロリのソフビ人形を何度もどこかに落としたり、なくしたりしましたが、新しいものが見つかればそれで満足していましたし、お小遣いは貰えば貰うほど漫画や本に注ぎ込んでいました。

 「本当に大切な宝物」が、どんなものかを知ったのは本当につい最近のことです。

 どんなものかが分かるようになるには、その前段階がありました。ひとつは、いくらお金があって欲しいものが買えても、幸福感が満たされることは一生ない、むしろお金はほどほどにあればいいということを知ったこと。ふたつめは、自分はとてもたくさんの人に支えられて生きているんだな、ということを知ったこと。それから、自分には「(まぁそれなりに)しんどい経験をしたこと」もひとつヒントになったのだと思っています。

 このあいだ、こんなことがありました。

 わたしは、好きなものを吹聴するくせがあります(理由はかんたんで、言ってると引き寄せられるからです)。だから「西加奈子さんの作品が大好き」とさまざまなところで言います。西加奈子さんを尊敬していて、西加奈子さんに救われています。西加奈子さんの本を読んでいなければ、私はこの業界に入っていません。だから、何度も言うけれど、ファンと作家ではなくて、人と人としてお会いしてお話がしたいし、きちんとお礼が言いたいなと思っています。それだけ、大好きな、大好きな作家さんです。

 でも、いつも心がけていることがあります。それは「おすすめを強要しない」ということです。

 私にとって、西加奈子さんの作品は、それだけの思い出があるのだけれど、他の人にとってそうなるとは限らない。だから、私は「絶対おすすめ!ぜひ読んでみて!」とは絶対に言いません。それでも、興味をもって読んでくれる人がいます。そのとき、同じように肯定的な読書をしてくれた場合は、どんな感想でも聞かせてみせて!と思います。嬉しい、良かった!と思います。でも、この間はこんな風に言われました。「西加奈子を読んだけれど、強すぎて、二度と読まないと思う」というようなニュアンスだったと思います。もう、私は、ショックすぎて、忘れました(笑)そのとき、久しぶりの感情がやってきました。「あぁ、自分の大切にしている人のことを悪く言われると自分のことのようにつらいんだな」と。

 例えば、私にはミュージカル俳優を目指している友人がいますが、その子がどれだけミュージカルが好きで、踊ることや歌うことに夢中になっているか、そしてミュージカルという「心から打ち込める何か」出会うまで、そしてもちろん出会ってからも彼がどれほどの努力をしているかということを私は知っています。そんな友人にわたしは「わたし、タモリさんと同じでミュージカルはどこがいいかさっぱりわからないんだよね」なんて言いません。言えませんよ。だって、「私がミュージカルを好きか、嫌いか」なんて、全く必要のない情報ですもの。私たちは「ミュージカルは是か非か」のディベートをしているのではありませんから。「自分の意見を殺す」こととはこの場合、少し違うなって思うんです。

 それを言ってしまったとき「友人はどんなふうに思うか」というところまで、私は考える余地は持っていたいと思っています。そういう「空気の読み具合」は必要だなって思っています。もちろん、「あなたはそう思うのね、でも私はこうなのよ」とうまく感情を切り盛りできる人は、いるでしょう。でも、私はそうではありません。だから、私も彼の思い出という価値観を踏みにじってまで、自分の意見を言う余地は自分にはないと思うんです。

その人が大切に思っているものごとには、その人にしかない「そこにまとわりついている思い出やにじみでる時間」があることを、絶対に忘れたくないと思います。それだけは、絶対に忘れたくないです。否定する権利もありません。

私が、「彩ちゃんには、普段話さないことを話してしまうわ」とか「聞き上手だね」と言われるのは、ちょっとだけ、こういう理由があるのかなと、ちょっとだけ、思っています。