leading a book_004-漱石と、私たちと、AIの百年

 ​2016年12月9日

 明治の文豪、夏目漱石がこの世を去って今日でちょうど百年が経った。ジャムが大好きで、イギリスでホームシックになって、「I love you」を「月がきれいですね」と訳した(と言われている)おちゃめでロマンチックな漱石先生。

 本当はいま、キョンキョンの書評をまとめた『小泉今日子 書評集』を読んでいるのだけど、今日は特別な日だから、帰りの電車で『夢十夜』を再読してみた。代々木上原から小田急線で1時間。読み切るにはちょうどいい時間だ。最後の10分でしっかりと余韻にも浸ることができる。

 『夢十夜』は、漱石による短編小説。「こんな夢を見た」の書き出しで始まる幻想的な十の夢模様が語られてゆく。そのなかでも、特に美しいのはやはり第一夜だろう。死の間際の女に「大きな真珠貝で穴を掘って、天から落ちる星の欠片を墓標におき、百年待っていてください」と頼まれる男。その通りにして、幾日も幾日も東の空から日が昇り、西の空へ沈んでいくのを眺めていた。しかし、待てど暮らせど訪れない百年のとき。女に騙されたのではないかと思いかけたその瞬間、男の目は石の斜(はす)から一本の青い茎がこちらに向かって生えてくるのを捉えるのである。

 私が下手な解説をしなくても、『夢十夜』は青空文庫で読むことができる。第一夜だけなら、10分もかからないはず。だから、ぜひ読んでほしい。絵画的に美しい。思わず、絵に描きたくなる。でも、ラストはあこれも夢なんだなと、案外呆気なく終わってしまう。そのあっけらかんとした感じも良い。

 百年とは、何日だろう。計算機で調べたら、36500日だった。(計算機がなくても365日の百倍だから、ばかでなければすぐわかる。ばかでなければ…)男は、女が死んで36500の朝と夜を迎えた。どのくらいの時間感覚なのだろう。物語のなかの、さらに夢のなかの出来事なので想像することしかできないけれど、それはきっと永遠のような途方もない時間。そのあいだ、男は待ったのだ。

そして、漱石先生が死んで、私たちもまた、36500の朝と夜を迎えた。漱石の小説を読むと、明治の人々と、平成の私たちは、決して時代で分断されない、地続きの歴史の延長にいることがよくわかる。漱石の物語に出てくる主人公の懊悩は、私たちにもきちんと理解できる。人間の生まれ出ずる苦しみや、意味のようなもの。そこに答えはない。ないけれども、答えがない問いに対して悩み続ける自分と、同じように悩む人間が他にいるということを分からせてくれる。100年前の物語が私に寄り添ってくれる。文学が存在する理由は、そういうことだと思う。

そういえば、漱石のアンドロイドができたらしい。漱石ファンの友人に「良かったね!」とメッセージを送ったら、複雑そうにしていた(そりゃそうだ)。2016年の今年はAI(人工知能)元年だとも言われている。人工知能が人類の知能を超える日も、そう遠くはないという。

これからまた36500の朝と夜を迎えたとき、百年後の人工知能はこの物語の美しさを理解することができるのだろうか。

真珠貝に月の光がさしたときのきらめき
柔らかい土の匂い
遺体をそっと抱き上げたときに感じたあたたかさ
100年経ったことのわからないまどろみ

そして真白な百合の花が、自分の方へ首をもたげ、そっと落とした露の意味

命の儚さと美しさ、そして愛おしさ。
それらが混在すること。分析や、計算や、検索で、この感覚というのは理解できるものなのだろうか。日本人が百年どころではない、それより遥かに昔から育んできた大切な感覚。ぽっと出のAIなんかに分かるもんか。と、声を大にして言いたい超文系人間なのです。