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leading a book_003 東京ではキレイでいなくてはいけないの

​ 東京のどこかの駅にこのような広告が貼られていた。

 「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」

 車内マナー、特に化粧をする女性に関しての広告なのだけれど、この広告を見たとき言いようのない違和感と小さな絶望感にかられた。この感じは最近違うどこかで経験したなと思い返してみたら、村田沙耶香さんの『キレイなしわのつくりかた』がそれだった。

 三十路を超えて、第二思春期を迎えた著者・村田沙耶香さんのエッセイ。村田沙耶香さんは今年『コンビニ人間』で芥川賞を受賞された大注目の作家さんだけれど、自意識に苛まれるアラサー女子の「あるある」を村田さんらしい視座からプスッとついてくるところが、読んでいてなんだか小気味いい。そして、このエッセイを読んで共感をするようになってしまった私も、歴としたアラサーなんだな、と悲哀を感じつつ、何だかおもしろおかしい。

 このなかで「年齢に合った良いものを持っていないと恥ずかしい」という謎の固定観念に息苦しさを覚える村田さんの様子が綴られている。愛読している同い年のOLさんのブログに「この年齢で安いバッグとか、恥ずかしいですよね」という一言とともに始まるエントリー。ブランドもののバッグを買った日のことが綴られていたという。インターネットの質問サイトでは「30歳で○○のバッグってどう思いますか?」といった質問が踊り、回答者は皆一同に「はっきりいってイタイからやめておけ」という。年相応のものと、自分が本当に身に付けたいと思うもの。どこでバランスをとることが本当の大人なのだろう。村田さんのもやもやは、私にとってはまるで自分ごとだ。

 先日、表参道の某所で取引先様の企画するエキシビションがあり、そのレセプションにふらりと立ち寄った。本当はその日そんな予定はなかったのだけれど、代表に「行ってみて」と言われれば、断るわけにもいかない。実際に、興味もあったし。でも、やっぱり緊張した。そして、受付に来るやいなや後悔した。

 圧倒的な「華」をもつ人々。美しい身だしなみで、かぐわしい香りをまとい、スパークリングワインの注がれた華奢なグラスを片手に、歓談するその姿。流行のその先にいる人々。もしかしたら、流行を作る側にいる人々。ギャラリーを一周して足早に逃げた。「次の用事があるから」とうそぶいて。

 リバティ柄のお弁当バッグを持っていてはダメか。叔母に貰ったノーブランドのスカートはダメか。帆布のリュックを背負っていてはダメか。おまけに、家を出るときは土砂降りだったから、その日は長靴で出勤していた。最悪だ!誰からもダメなんて言われていないけれど、なんだかダメなような気がした。これもひとつの強迫観念なのか、わかっていても苛まれる。

 街に人格があるとすれば、表参道は、確実に人を選んでいるような気がしてならない。流行に敏感で、新しいものを鮮やかに取り入れ、身だしなみをパリッと整えた、オトナの人々。この街の求めるステイタスは、私のスタンダードとはあまりにかけ離れすぎていて、くらくらと目眩がする。悪いことなんて何もしていないのに、巡回中のおまわりさんとすれ違うときになぜかおどおどしてしまう感じ。それと似ている。

 ひるがえって、先の広告に見た違和感。

 まるで、「東京にはキレイな人しかいてはいけませんよ」「東京にいるためにはキレイにしていなくてはいけませんよ」といっているかのように聞こえないか(落ち込んでいるから、ちょっと被害妄想気味だ!)。美しいとは、何だっただろうか。美しいとは、その人がその人だから美しいのではなかっただろうか。ありのままのその人が、たった1人しかいないその人だから美しいのではなかっただろうか。表参道的な美しさと、私が信じている(いた?)人間的な、というより文学的な美しさは、やっぱり全然別物な気がした。

 東京は、やっぱり苦手だ。無言の圧力をしかけてくる。
「別に私は何も言っていないわよ。あなたが勝手にそう定義して、その定義に外れていると思い込んで自分で自分の首を絞めているのよ。」という表参道(いじわるな女性)の声が聞こえてくる。これからは、東京のあらゆる街に人格を設定してしまいそうだ。

 東京に、私がそのままでいていい街はあるだろうか。

 …あるんだなぁ、これが。私は知っている。そんな街を、私はいつも探している。もう少ししたら、その街のことを話したい。もうすぐその街で、新しい生活が始まる予定だから。