読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

奇跡みたいな。

 週に何通かは手紙を書きます。それは、私にとってごくあたりまえの行為です。便箋と封筒を選び、言葉を選び、筆を走らせ、最後に切手を貼ってポストに投函するまで。もしかしたら、押された消印でさえも。その人のことを思いながら綴る一言、一言が、かけがえのない思いの積み重ねです。この行為が、本当に好きです。

 私は、幾度か手紙で「奇跡」を起こしています。絶望に打ちひしがれていたとき、再起を図ることができたのは、暮らしまわりで活躍する「あの人」へ手紙を書いてお返事をいただいたことがきっかけだし、今、自分がまた別の「あの人」のもとで仕事ができているのも、履歴書と一緒に手紙を同封したからに違いないと思っています。世界で一番大好きなあの作家さんから、お手紙を頂いたこともあります。手紙は、今の時代だからこそ最強のコミュニケーションツールだと信じて疑いません。

 いま、家にあるほとんどのものは、もちろん大切なものもあるけれど、なくなっても代替可能なものばかりです。でも、手紙ばかりはそうはいかない。あのときにもらった、あの手紙は、あのときだからこそいただけた、私にとってなくてはならないもので、何度も読み返す人生の宝です。自分が死ぬときは、自分の棺に今までもらったいっぱいの手紙を納めてもらうつもりでいます。

 昨日、またひとつものすごい手紙を頂いてしまいました。

 読み終わってから感極まって号泣する、ということは今までに何度かあったけれど、読んでいるそばから空気を吸って吐くように、何事もなかったかのように涙が目に滲んで、視界はかすれ、続きが読めなくなっていました。そこにある言葉は、とても、とても神聖なもののように感じました。今までに読んできた、いろいろな文章があったけれど、その中でも特に、きれいな言葉でした。どこにも陰りも曇りもなくて、光を浴びせられたような気持ちになりました。例える技術がないから悔しいのだけれど、毎日神様に祈っていたら、いつの日か目の前に現れて、救いの言葉をいただいて生まれ変わったような、そういう奇跡みたいな感じがしました。

 意外にも、涙は四滴しか流れませんでした。左目から二滴。右目から二滴。数える余裕もありました。(なんとかこの気持ちを言葉に残してやろうとリアルタイムで考えていました。もう職業病かもしれません。)

 でも、まるで嘘みたいに、見えている景色がすっきり変わってしまったような気がします。

 表現の仕方は、いろいろあると思うのだけれど、自分のなかに何かがしっかりと根付いたというか、憑き物がストンと落ちたというか。それは、自分のなかに自分の信じている神様がいるっていうことをしっかりと自覚した、ということなのかもしれません。

 もっと自分を大切になさいよと、慈しみなさいよと、いつも誰かから言われている気がします。今回もそのようなことでした。でも、その言葉運びが、(聖書なんて読んだことがないけれど)聖書のようでした。

 私も、たったひとりでもいいから、自分の言葉で人を救いたいなと思いました。救いたいって、そんな重苦しい意味ではなくて、じんわり染み込む、みたいなことです。身体の表面ではなくて、もっと一番内側の、中心に近いところにある何かに届くような。

 それは、言葉を磨くだけでは足りないのだと思います。人としての豊かさと、言葉の海を自由に泳ぎ回れる表現力と。

 いつか人生が終わるとき、急にではなくてやっぱり人生をさかのぼり、思い返す時間が欲しいなと思います。そのときに、ゆっくりとここで書いたことや、今までいただいた手紙、大好きな本を読み返したい。読むことで、人生を終えられたら完璧だなと、そんなことを思う今日は、なぜかものすごく月が大きいです。

20161207/age6 jogen no tsuki